最近、今更ながらデザイン、ユーザビリティ関連の名著「誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論」を読み返しています。新曜社から出た日本語版は1990年とかなり前の本で、インターネットが一般的に広まる前夜に書かれたものですが、様々なプロダクトデザインのインターフェースを考察していて、ウェブデザイナーにとっても改めて使いやすさとは何か?デザイナーに求められる役割とは何か?ということを考えさせてくれる内容になっています。この本の最後の最後に「未来の情報の世界」、「家庭で世界中の情報を手軽に入手出来る世界」(まさにインターネットの世界)を想像した上で、こんな一説があります。
私はいつも車の鍵や昨晩読んでいた本を見つけられなくなってしまう。(中略)このように限られた量しか無い私の所有物や本だけでもこんなに困難を覚えるのに、世界中の図書やデータベースから何かを探すことになるとしたらいったいどうなるのだろう。ましてやそのデータベースの構造はと言えば、私が何を欲しているかなど全く知らない他人が作った物なのだ。まさに混乱。全くの混乱となるに決まっている。これに対する答えを僕らは知っている。答えは「検索」だ。まさに僕らは毎日この難問に対して、テキストボックスに好きな言葉を入力してボタンを一つ押すだけで簡単に解決してしまっている。
しかしちょっと待て。D.A.ノーマンが400ページにも渡ってあらゆる道具のユーザビリティを考察しつつ、デザイナーが考えなければいけないことを論じているのに、(少なくてもウェブデザインに限り)とにかく何でも検索すればいいじゃん、で片付けてしまっていいのだろうか?検索ボックスのユーザビリティを考えるのはデザイナーの仕事だが、「検索する」という行為は別にデザイナーがもたらした恩恵とは言えない。GUIは検索に駆逐されてしまうのか?
そもそもGUIの元祖アップル自体が、OSの進化とともに検索機能をバージョンアップさせていて、一時は「もうこれからはファイルやフォルダを階層的に管理する必要は無い!高速のファインダ検索機能があるのだから!」とまで言っていた(ような気がする)。デザイナーとしては分かりやすくて使いやすいナビゲーションを設計すること、ユーザーが知りたいと思う情報に素早く辿り着けるような情報設計/ビジュアルデザインをすることにやりがいを感じたりするので、とりあえず検索ボックス置いておけば便利でしょ、みたいな発想にはにわかに迎合しがたいものがありますが、実際自分自身も検索ボックスがすぐに見つからないサイト、ないしサイト内検索自体が無いサイトには非常にストレスを感じてしまうのもまた事実。以前インターフェースを3D化した次世代OSよりも検索ボックスが一つ置いてある方が便利だ、みたいな話も確かにしました(「3Dデスクトップアプリ『BumpTop』は革新的なUIなのか? 」)。
何やら長くなってしまいましたが、これからはGoogleのように「検索する」という行為自体をデザインする時代になるのかもしれませんね。ユーザーの多様なニーズに応えるには一つのナビゲーションでは限界がある。検索はもはや必須だ。ここでデザイナーが踏ん張らないと、未来のウェブサイトのインターフェースは無機質な検索ボックス一個、ということにもなりかねないのだ。
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